文鮮明教祖の「血分け儀式」内容全告白 – 元側近・金徳振牧師

週刊ポスト  Shūkan Post  1993.10.1     212-215

▲ 昨年8月合同結婚式の文鮮明夫妻(1993年)

金徳振牧師(上の写真)が懺悔の気持ちを込めて書いた手記 ▲

文鮮明教祖の「血分け儀式」内容全告白
元側近・金徳振牧師

〈発堀スクープ〉

●レポート/大林高士(ジャーナリスト)


あのソウルで行なわれた統一教会・合同結婚式から1年、この新興教団は外界からの強い関心を集めながら、いまも多くの謎につつまれている。資金は?政財界とのつながりは?布教の方法は?そして、彼らが信じる宗教的規範と現実社会の通念とのギヤップを、どう埋めていくのか?それらの疑問を解くひとつの手がかリとして、本誌は統一教会のルーツを探ってみることにした。ソウルで取材を進めるうちに、ある興味深い証言者に遭遇した。彼は、統一教会草創期の頃、文鮮明教祖の周辺で信じられ、実行されていた〃ある儀式〃について自らの経験を語りはじめた。


16人の女性信者と交わって

「文鮮明という名前に隠された秘密を教えてあげましょうか」

今年80才になる金徳振牧師は、こう語りはじめた。「文鮮明」とは、いうまでもなく統一教会(世界基督教統一神霊協会)教祖その人のことである。

「文鮮明の本名は文龍明なのだが、ある日、私か彼にこう教えたのです。「文」という字には十字架が2つある。その十字架を「明」という字の日の上下に加えると「朝」という字になる。だから、龍の字を鮮に変えると、「文鮮明」という名は「朝鮮」そのものになる。

それから間もなくして、彼は龍明から鮮明にと改名したのです」

文鮮明教祖に改名のアイデアを与えたという金は、かつて統一教会の草創期の頃、文鮮明の側近であった。現在は、ソウル特別市警察庁の警察牧、師の肩書を持っている。

ソウルで私のインタビューに応じた金の口からは、さらに信じ難い衝撃的な話が飛び出した。

「統一教会の源流が血分けのセックス教団だったかどうかという質問は愚問です。韓国では、統一教会が血分け教であったことなど多くの人が知っている。証人を集めろといわれれば、何人でも集めることができますよ。

「私は、こうしてSEXリレ一の〃走者〃に選ばれた」

現に、私自身が、文鮮明と交わって血分けされた劉信姫からさらに血分けされたのですからね。そうです。血分けとはセツクスのリレーを意味します。私自身も、劉信姫とセックスした後、16人の女性信者と交わって、血分けを広めたのです」

口調は高ぶるでもなく、平然としている。金とは、いかなる人物なのか。ある韓国の警察関係者に確かめると、こんな答えが返ってきた。「彼は韓国動乱(朝鮮戦争)の時、開城(現在は北朝鮮=朝鮮民主主義人民共和国の都市)で音楽教師をしていた。

金日成軍の侵入を受け開城も占拠され、以後、やむなく金日成を讃える歌を作ったりしていた。その後、韓国軍に捕らえられ、スパイ容疑で獄中生活を送っていた。しかし、1年と少しで結局、無罪釈放となり、統一教会に入信して脱会。現在は、刑務所の囚人たちを音楽などで慰問する警察牧師という職をつとめている」

私は、今年2回の韓国取材で、この金牧師と接触。何回かの長時間にわたるインタビューを行なってきた。そんなある日、彼は私にこう切り出したのである。

「私の日本語はつたないが、私の統一教会時代の蹟罪の意味をこめて、手記を書いてみようか」

日本統治時代に育った金は日本語の文章を書くことができる。私か金から手記を受け取ったのは、9月13日のことだった。そして、その手記はそのまま統一教会の血分け論争についての貴重な証言となっていたのである。金の手記の書き出しは、こうだ。

〈私は1953年頃、陸軍中央軍法会議の結果、無期懲役を宜告され、無期囚438番になって大邱の第一陸軍刑務所に収監された。その時、刑務所教会聖歌隊に李錫彬(文鮮明の直弟子)なる人物がいて、私に統一教会の原理(血分け儀式)を完璧に教えてくれた〉

この儀式とは、どんなものなのか。私の問いに、金は、「教祖から血分けされた女性たちが男性に、その男性からまた別の女性へと清い血を伝えることによって、アダムとイブの時代から人々が背負っている原罪が消えるという教えだ」と語り、彼自身も「夢中になってその原理を聞いた」と答えている。

第一陸軍刑務所を出獄する時、金は李から「ソウルに行ったら文鮮明に渡してくれ」と1通の手紙を託された。

苦労して探し出したソウルの統一教会を訪れたのは、ちょうど礼拝が始まる時刻だった。その礼拝には、教会の重鎮の金元弼、劉孝元、その弟の劉孝敏(現在脱会)、そして朴正華(脱会)らが顔を揃えていたという。

礼拝が始まり、文鮮明作詞の讃美歌が歌われた。驚いたことにそのメロディが日本の軍艦マーチだったため、礼拝が終わると、金は、文に「こんなバカなことがあるか」と問いかけた。文の顔は真っ赤になり、以後、文に請われるままに金は19曲の統一教会の歌を作曲したという。

〈文鮮明は私を特別に待遇した。何故ならば私か原理を完全に悟って、彼と血分けした劉信姫(劉孝元の妹)と血分けしたからである〉

「女好き不良青年・金徳振」

手記は、統一教会の「血分け儀式」について、こう書いている。

〈文鮮明と肉体関係した女性は必ず第二の男性と、その男性は第三の女性と、またその女性は第四の男性と、肉体関係を、すなわち「リレー」式にするのである。

とくに文鮮明は、男信徒たちに、自分と血分けした女信徒の誰々と「血分けをやれ」と命令することができないのが原理。その女信徒は、自身が選んで男信徒ひとりと血分けしなければならないのである〉

血分けの相手は文鮮明が選ぶのではないのか。手記を読んで意外に思い、私かそう尋ねると、金は、当時は「原理」の原則が尊ばれていたと答えた。だが、金以外の信者の中には、文の指示を待つ人たちも多くいたという。

「では、文鮮明自身はいったい何人ぐらいの女性信者と関係したのだろう?」

私がそんな疑問を口にすると、金はまたまた平然とした口調で「百数十人」と答えるのだった。

その血分けの時にはどんな儀式をするのか。女性から男性に血分けする時は女上位なのか。金は少し苦笑して、「それは後でつけた理屈で、当時は欲望のままにしたものだよ」

金自身も、数多くの女性たちと血分けを行なっている。金は自らの過去を、手記の中でこう懺悔する。

〈劉信姫は、私を選んで、尊い生きた天の父様・文鮮明の聖血を私に伝授したのである。女好き不良青年・金徳振は、こんな好機を活用し、美の女信徒たちを厳選して「ソウル6名」「晋州4名」、肉体関係をした色魔であった〉

多くの信者の中から若くて美しい女性ばかりを選んだという金は、私に、この10名のほかにも「6名の女性信者と関係を持った」と告白している。

劉信姫の兄の劉孝元は、元統一教会の重鎮である。日本の敗戦直後、文鮮明が釜山で貧しき統一教会を旗揚げしようとしていた時に、ソウル大学を卒業したインテリで片足の不自由な劉孝元が入信して文の片腕となったという。統一教会の「原理講論」の実質的著者ともいわれる人物だ。


● 統一教会の「血分け儀式」に対する反論

金徳振氏は1950年中ごろから、韓国統一教会の教会員でした。しかし、同氏は統一教会にくる前から60人の女性と問題を起こしており、統一教会入教後は統一原理を自分勝手に解釈し、儀式めいたことを行ない複数の統一教会女性信徒と性的関係を結び、女性間題を起こしたことで、そのことを女性信徒から告白を受けた当時の協会長である劉孝元氏らから厳しく吒貴され、教会に顔を出さなくなり脱会し、その後統一教会批判を行なっているものです。

金氏の証言と手記には統一教会に「血分け儀式」が行なわれていて、文鮮明師自身関係を持った女性が数多くいたと、言っていろということですが、統一教会には「血分けの儀式」など教義的にも実際も一切存在せず、文師が不特定の数多くの女性と関係をもったことも一切なく、金氏の征言、手妃で言っていることは何の根拠もない事実無根の虚偽の内容です。

金氏の王張は同氏が統一教会にいたときに引き起こした女性問題を、教会と文師の貴任にしているものであり、こうした女性問題を引き起こした貴任は金氏に帰するものであろことは自明の理といえると思います。(広報部)

劉孝元はその後、長く統一教会会長をつとめていたが、1970年7月に死去した。

金は、この大幹部の妹から選ばれて血分けされたというのである。だが手記は記す。

〈劉孝元は自分が著述した原理講論は女生徒たちにうまく講義するけれども、(自身は)一度も血分けしなくて、ただ文鮮明から「誰々と血分けせよ」との命令を期待している大きな「バカ」である。

そして私の東奔西走の血分け行進を中断させるつもりで、私に向かって、「血分け」は「蘇生、長成、完成」原理に従って3回しないといけない。1回だけしかしていない自分の妹・劉信姫との血分けでは、当然無効であるといった。私は非常に怒って、劉孝元を殴ってやった〉

おそらく劉孝元は、自分の妹とセックスした金に、内心穏やかならざる思いを抱いていたのだろう。

才能を悪用して女性を寵絡

だが、この劉孝元との対立がきっかけで、金はソウルを離れることになった。

〈文鮮明は私と劉孝元を分離させるつもりで、私に「大邱へ行け」と命令した。文鮮明は私を派遣する一方直弟子・朴正華(文鮮明が北朝鮮から南下する時、一緒だった)と美人・萬玉禮(もちろん文鮮明と血分けしていた)を、大邱で結婚させることを考えていた〉

そして、大邱に着いた3日目に、金は偶然、李錫彬と再会した。かつて第一陸軍刑務所、金に統一教会の原理を明かし、文鮮明への手紙を託した李は統一教会を脱会し、大邱東教会の伝道師になっていた。

金は、「普通のキリスト教信者になれ」という李の忠告を受け入れて、統一教会を脱会することにしたというのだ。金が統一教会を去ったのは1958年のことだった。

金は、アメリカ人宣教師が設立したピョンヤンの私立学校を卒業している。その学校からは、有名な牧師や著名な教育者、社会事業家などが輩出していると金は書く。

〈私は、音楽を専攻(演奏、作曲)した才能を悪用して、多数の女性たちを寵絡しました。とくに統一教会の幹部になって犯した罪は、厳罰されなければなりません〉

すなわち、かつて統一教会の幹部だった金徳振は、それから35年を経て、なお懺悔のためにこの手記を書いて、私に手渡したというのである。文鮮明が、1960年に現夫人の韓鶴子と結婚するまでの数々の女性遍歴やスキャンダラスな事件について、書かれた書物や資料は数限りなくある。けれども私の知る限り、「血分けの儀式」の体験者が、その行為を自ら赤裸々に告白した例は見たことがない。

その意味で、金徳振のこの衝撃的な手記が持つ意義は決して小さくはない。

もちろん、今日の統一教会では、この手記にあるような血分け儀式は行なわれていない。だが、統一教会草創期の内幕を暴露した、この手記の問いかけに、統一教会側は、どう答えるのか。40ページの「反論」を参照していただきたい。また、金徳振の手記には、最初の妻(後に離婚)だった崔先吉女史が語る夫・文鮮明についての衝撃的な内容が記されていた。

はたして、その内容が事実なのか、どうか。私は崔先吉にも接触を開始した。つてをたって、ようやく崔に会えたのは、私が2回目の韓国取材から日本に帰国しようとしていた直前のことだった。

その日、東京ドームでは、数万人の参加者を前にして、文鮮明の現在の妻・韓鶴子が「真の父母と成約時代」と題する基調講演を行なっていた。

ちょうどその頃、海峡を越えたソウルで、私は崔先吉の前にいた。

(文中敬称略・以下次号)


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▲ 文鮮明の後ろを歩く金徳振


▼ 若かりし頃の金徳振牧師

セックスリレーの実践者

金徳振 ビデオ

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約1956年頃のグループの後ろ立つに金徳振。